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涌さんの・・・・



ライオンの味噌煮込み

知床にはライオンが棲息している。と言っても名前だけのことだが、巨大な鰭脚類『トド』の事を英名では ステラー・シー・ライオン(Steller sea lion)と呼ぶ。ロシアの探検家ビータス・ベーリングの第2次カムチャッ カ探検隊(1733〜)に同行したドイツの自然学者ゲオルグ・ウィルヘルム・ステラーの名前が付けられたも のである。ちなみに知床の生態系の頂点に立つ極東の猛禽、オオワシも英名ではステラーズ・シー・イー グルと呼ばれる。トドは例年12月から4月頃まで群をなして羅臼前浜を回遊している。ハーレムを作る1ト ンにも達する巨大なものを『ブル』と呼ぶが、この海域では雌と若い雄の回遊が多く、大きなものはあまり 見られない。それでも500s前後はあり、毛皮の下は10pを越す分厚い脂肪層に包まれてている。トド肉 についてはくさい、かたい、まずい等の評判もあるが、若いトドならば、それほどまずいとは感じない。 ヒゲ鯨類には劣るが、マッコウ鯨と比べるとまあ、五分五分と言ったところだろう。20年ほど前に高波の 被害調査で知床岬近くの番屋に泊めてもらい、塩蔵したトド肉を食べらせていただく機会に恵まれた。 定置網に入ったトドを多量の岩塩で塩蔵し、それを番屋裏に流れる湧き水で1週間ほど塩抜きした後、 味噌煮込みとしたものであったが、あんなにうまいトド肉を食べたのは最初で最後だった。味も、勿論良か ったのだが、食感は中華料理店の豚の角煮にも勝るものであった(あまり高級な店には入ったことはないが)。 肉以外では昔、冬山の登高の際に山スキーの下に張るシール(普通はアザラシの毛皮、最近ではナイロン 製のものも使う)にトド皮を使ったことがあるが、堅くて癖が強いため、滑り降りる際に行きたくもない方向に 勝手に行ってしまうので難儀したことを思い出す。 羅臼の住民は過去に、特に戦中戦後の食糧難の時代はトドには大変お世話になっていたようである。 また、鯨と同様にこの地域の食文化としても残しておきたいものの一つではあるが、種自体の存続が危 ぶまれるのであれば徹底した管理の元での利用、あるいは一定期間の保護対策は当然為されていか なければならないものと考えている。




  一斉調査

  冬季、知床半島には多数のオオワシが飛来する。羅臼町には町独自で天然記念物監視制度が制定されており、5人の監視員が密猟や事故などに備えていたがその数の調査はされたことが無く、未解明であった。私は昭和51年に羅臼に赴任し、文化財の係りとなったが一体、何羽のワシが何処からやって来るのだろうという疑問を持ち、監視員の方々にお願いして昭和53年より一斉調査を開始した。当初は機材もなく、子供が使うようなおもちゃの双眼鏡やオペラグラス、測量に使うトランシットまで持ち出しての調査であった。更に私は鳥、あるいはその生態などに関する知識は皆無であったので、丹頂の調査を手本とするなど、今考えれば汗顔の至りである。しかしながら昭和53年には44羽のオジロ、オオワシが確認され、少なくてもこれだけは渡来しているという数を明記できることとなった。また、オオワシの比率が高く、この調査では71%にものぼり、当初は識別ミスかとも考えたがその後の二十数回に及ぶ調査で、同程度の比率であることも判明した。確認数は回を重ねるごとに増え続け、昭和58年の第6回調査では総計2682羽を数えるに至った。この頃には知床博物館に事務局が設置され、調査も大規模なものになり、日本全国で鳥類の専門家達が同じ日に双眼鏡を手にして観察するということとなり、それに伴って様々な分析がなされるようになってきた。調査により判明した大略を記すと、 1.冬季間、日本に渡来するオオワシ・オジロワシの最大数は2500〜3000羽程度。最大は2004年の3425羽。 2.羅臼前浜ではスケソウダラの漁獲量と密接な関係を持っている。 3.オオワシに関してはその多くはサハリン、シャンタル諸島より渡ってきているが、かなりの数が棲息していると思われるカムチャッカ方面からはあまり渡来してこないようだ。これは半島の太平洋側は結氷しないためと半島南端にあるクリル湖も全面結氷はしないため、膨大な量の紅鮭あるいはその死体の捕獲が可能なためと思われる。 4.渡りの時期は10月頃からで、経路は稚内からオホーツク海沿いに南下するが、知床半島を通り越して南千島に行くものも多くあるが、厳冬期(2月中旬)になると知床あるいは道東に戻ってくるものも多い。これは河川が結氷するまでの間、自然河川が多く残っている南千島の鮭に依存しているものであろう。  等々である。いずれにしても、知床の地が彼らにとって重要な意味合いを持っていることは明確であり、世界遺産指定の報を待つ今こそ、少なくても森林やスケソ資源など、現状を維持する方策を皆で考えていかなければならない時期である、と思っている。




ルサのっこし

  例年、寒さの厳しい2月の中旬に職場の若い者達と山中に酒を飲みに出かける。 今年は2年ぶりに「ルサのっこし」で一杯やることとなった。 知床には羅臼側に『ルサ』、斜里側に『ルシャ』と言うアイヌ語地名が残されている。 もともとは同じ発音でルシャ、と言うらしいが明治年間に陸地測量部が地形図を作る際に まぎらわしいので、羅臼側をルサとしたらしい。知床の最低鞍部で風の通り道となっており、 沖合では常に波が立っているため、漁師達も「ルシャモン」と呼んで警戒する地域である。 ru-e-san-i(ルエシャ)=路が・そこから・浜へ出ていく・所。と言う意味だそうだが、 昔から知床半島を横断するのに使われていたという。その名の通り、 標高千メートルを超える知床の主稜線の中では一番低く、 わずかに280メートルを計測する。出発は海岸の道路脇からで、 1泊2日の装備なのでそんなに重たいはずはないのだが、 皆それぞれに隠し財産を携えているため、それなりの重量になる。  山スキーにシールを貼り付け、登高を開始する。 登高と言ってもしばらくはルサ川の河原を歩くためほとんど平坦で、 1時間ほど進んだ後やや急な斜面をスキーをだましながら50メートルほど登り、 後は緩やかな斜面の灌木帯を登り詰める。更に1時間ほど歩くと主稜線に到着、 オホーツク海には流氷が詰まっており、 羅臼側は黒々と横たわる国後島との間の根室海峡に開氷面がかなりあり、 操業中の漁船も見受けられる。一服した後はいよいよ本日の居酒屋作りに取りかかる。 冬季間この地域では絶え間ない北西風が吹き続けるので、稜線の東側に巨大な雪庇が発達する。 そこに穴をあけ、7〜8人収容の大きな雪洞を掘ろうというわけだ。寒風を避けるため、 入り口は小さくしなければならず、最初の内は狭苦しくて大変だ。 入り口から斜面の下に向けてスキーを裏返しに敷き並べ、手動のベルトコンベアーとする。 若者達には汗をかかないように頻繁に交代するように指示するが、ついつい夢中になってしまい、 汗まみれ、雪まみれとなってしまう。 1時間半もすると完成だ。中では外の風音も全くせず、 蝋燭のほのかな明かりが満足そうな顔を照らし出す。食頭(最近の食頭は『シェフ』 と呼べと言ってうるさい)は雪を溶かしながらこりにこった調理のうんちくを並び立て、 各人はザックに隠し持ってきた酒とつまみを自慢する。 湯気で隣の人の顔もかすみながら料理が完成するといよいよ、 時間無制限・一本勝負の始まりだ。




 エゾサンショウウオ

  日本には17種類のサンショウウオが棲息しているが、北海道ではキタサンショウウオと、 エゾサンショウウオの2種が棲息している。このうちキタサンショウウオは数万年前の 氷河期の後にとりのこされたもので(遺存体)、北千島、カムチャッカ、シベリアなどに 分布しており、国内では釧路湿原にのみ分布が知られている。キタサンショウウオは 後ろ足の指が4本なのに対し、エゾサンショウウオは5本なので容易に区別がつく。 羅臼を含めた全道に広く分布しているのはエゾサンショウウオだが、5月上旬に ちょっとした水たまりに細長い卵嚢を産卵する。成体は大きなもので20p近くになる。 郷土資料室で飼育しているものは、1998年5月に卵を採集し、孵化させたものだが、 すでに今年で6歳となる。餌は夏にはミミズや蠅を与えているが、 昆虫などが見つからない春先や、晩秋はマグロ、イカ、エビ、 鶏肉等何でもOKのグルメとなる。太さ2〜3o、長さ2〜3p位に 細く切ってピンセットに挟んで、目の前で振ってやると飛びついてくる。 しかし、カエルなどと比べると採捕技術の未熟さは一目瞭然で、 目の前の動くものしか見えないらしく、同僚のシッポに噛みついたりもする。 現在生存しているのは6匹。 2002年は産卵させようと思い、冬眠させることとした。 冬眠自体は成功したのだが、思うとおりに産卵はしてくれなかった。 翌2003年は11月25日に冬眠を開始し、翌2004年5月11日に冬眠明けとなった。 その後5月17日に卵嚢1個を確認し無事ご出産となった。 しかし、ここからがサンショウウオの子育てをしたことがない未熟な親の悲しいところで、 6月8日にオタマジャクシ状の幼体が次々と孵化を始めたため、 卵嚢の中にいると窮屈だろうと思いそこから出してやると、 翌日から次々とお亡くなりになられ始めた。 結果的に卵嚢は孵化直後の保護膜と餌の役割を果たしていたように思われる。 60匹ほど全てを死なせてしまった。今年も冬眠明けのシーズンをむかえ、 昨年の弔いも含め、ある程度大きくなったら元気に自然界に帰してやる ことができるよう気を引き締めている。





カムチャッカ半島の旅@

  昨年8月カムチャッカ半島旅行の機会を得た。ツァーなのだが、 釧路からの直行便で行くので日程に無駄が無く、いつも忙しいふりをしている私には好都合だった。 当初は太平洋岸を飛ぶものとばかり思っていたのだが、ロシアのチャーター便のせいも あってか飛行機は千島列島の西岸伝いに飛行し、カムチャッカ半島南端部を西から東へ横断して、 州都ペテロパブロフスク・カムチャッキーに向かった。 眼下にはクリークが縦横無尽に走る湿原が見える。釧路湿原のある町で幼少時代を送った私は、 それが広大なものという観念があったが、カムチャッカの湿原は横断するのにジェット機で 15分ほどもかかるまさに目を見張るものであった。飛行場から市内へはバスで走るのだが、 左手には有名なコリャークスキー山がそびえ立っている。富士山と同じ成層火山で標高は3456m、 見事な裾野を見せるが、その北側には同じような格好をした火山が延々と連なっている。 つまり、「富士山がいっぱい」状態だ。なぜか感動も薄くなる。 翌日は市内で若干の買い物を済ませた後、軍隊払い下げの超大型ヘリコプターで半島南端の クリル湖へ飛ぶ。1時間半ほどの飛行時間だったが飛行場から10分も飛ぶと人家、畑、 道路すらほとんどなく、手つかずの自然とはこういう状態を言うのだろうと感動させられる。 クリル湖は周囲50qほどの巨大なカルデラ湖だが、 半島西側先端部のオゼルナヤからの悪路以外のアプローチはヘリコプターに限られる。 数人の公園管理官?が常駐し、到着した我々に自然のガイドをしてくれる。 肩には猟銃をぶら下げている。ここは世界でも有数のヒグマの生息地で、 カメラマンの星野道夫さんがクマにおそわれて、命を絶ったところだ。 湖岸は白い軽石で覆われており、そこから3mも離れた灌木帯はクマ道、 あるいはクマのねぐらとなっており、ニェルカ(紅鮭)の腐った異臭がする。 流れ込む小川の周辺はクマの食べたニェルカの残骸でびっしりだが、 遡上する量が多いのと川が浅く、捕獲しやすいため、 ほとんど筋子しか食べていないように見えた。贅沢な奴らだ。 その後、ボートに乗って湖上からの観察だ。同行させてもらった知人6人は 鉄砲撃ち(もちろん、職業としているわけではない)で、クマを発見するのもすばやく、 ロシアのガイドにも負けないのだが、湖で鼻先だけを出して泳ぐ潜水グマの 発見には遅れをとったようだ。日本では見ることができないのだから仕様がない。




不時着             ラクダ山

カムチャッカ半島の旅A

 クリル湖からの帰りのヘリでは航空管制による時間調整のためか、途中の大草原で不時着? する事となった。着陸寸前に仲間の一人がクマを見つけ、ローターが止まらない内に飛び降り ようとして乗務員に怒られる。クマ撃ちはクマを見ると見境がつかなくなると妙に感心する。 降りてみると丈の低いガンコウラン、コケモモ、チングルマ等の高山植物と真っ白くて堅い トナカイゴケに覆われている。私も知床半島はかなり歩いているつもりだが、全くヒトの臭い のしない地に立つのは初めてのことで感動する。 翌日は、火山灰の泥流で覆われた沢筋を軍払い下げの6輪駆動車でコリャークスキー山へと 向かう。しかし、短い日程ではこの山には登れず、隣の活火山アバチンスキー山(2151m)との 鞍部直下にあるベースキャンプ(1,000m)に一泊しハイキングと温泉を楽しむトレッキングだ。 ベースキャンプは6〜8人が宿泊できるロッジが建ち並び、温風暖房のついた巨大なかまぼこ 型テントが設置されている。ガスの中での到着だったが、ロッジの周辺には地リスが何頭も走 り回っており、写真を撮ろうと思ったが以外と用心深いのと、少し離れるとガスで見えなくな ってしまい。写真を撮ることはできなかった。ロッジ内のセッティングが終わるとすぐにウィ スキーとビールで乾杯だ。つまみはペトロ市内のスーパーで買ってきた香辛料で真っ赤になっ たベーコンだが、これが非常においしい。翌朝、濃いガスの中を出発。なだらかな丘陵地を快 適に歩き続け雪渓へと出るが、この頃になるとガスもややあがってきて周囲が見渡せるように なってくる。200m程の直立した岩峰がそそり立っており、ガイドはこの山を登るという。 若干ビビッていると、その裏側のなだらかな砂礫帯に回り込んでの登山となった。山頂の眺め は素晴らしく、きれいな弧を描いた双耳峰となっており、山の名前を聞くと「ラクダ山」だという。 日本に帰って話をするときカムチャッカの「ラクダ山」に登ってきた、と言っても格好がつかない ので、ロシア語で教えてもらった。それらしい「なんとかスキー山」と言っていたが、 ややこしい名前で忘れてしまった。翌日は温泉巡りのため早朝出発し、 火山噴出物で覆われた丘陵のトレッキングだったが、途中で雨が降り出したため早めの帰還となり、 再び大揺れの6輪駆動車でペテロまで戻った。今回の旅はクマ見物と低山ハイクの旅であったが 友人、岡田昇が晩年フィールドとし、情熱を傾けた地でもあったからだ。彼が写真を撮り続けた クリル湖、彼が登った登山道を歩いていると彼の面影が脳裏を横切る旅だった。  


郷土資料館
熊頭付木製注口容器オホ−ツク文化圏世界初の大型木製品復元
竪穴式住居復元
知円別遺跡
羅臼沖を回遊する鯨模型
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