国後蝦夷騒動記
国後アイヌの長ツキノエ
東蝦夷地の蝦夷は従順で和人に叛意をおこしたことはなかった。ところが松前藩の場所請負制度、
商人の使用人の不徳から終に隙を生じ無知の蝦夷を憤怒させ悲惨な接触劇を演じる事になる。
当時国後場所は泊(国後島)に運上屋を置き所々に魚場を開き請負人は飛騨屋と言って陸奥国下北
郡大畑の竹川久左衛門で国後及び厚岸の魚場を支配し店舗を各所に建てて蝦夷と交易していた、こ
の地方は請負い番人の外出入のものがないので事情が外に聞こえず、それを良いことににして不徳
の番人等は専制暴行を極め夷人の物資を掠め夷婦を姦しその不徳を詰じるとかえって打摘を加えた。
彼等から物を受け取る時の数え方は「始まり、一、二、三...八、九,十、終わり」と十を数え
るに「始まり」「終わり」を加え十二を以って十とした、例えば鮭を受け取るにも十二尾取って十
としたものである。さてこの騒動の発端の原因は偶々鰊粕製造用の大釜を国後に持って行くと夷人
は始めて見る大釜に驚き何にするものかと尋ねるので和人は「お前らをこの釜で煮て喰うのだ」と戯
れると夷人は怖れを抱きました。ある日番人がこの釜で風呂を沸かし自分らが先に入浴し夷人にも入
浴するよう進めましたが恐れて入りません、番人は無理に夷人を入浴させますと運悪く湯が沸き過ぎ
ていた為入浴した夷人は大火傷をしてしまいました、その為夷人は和人の戯言を真に受け彼等は怨み
を抱いて仕事に精を出さなくなりました。番人達は自分等の非道を反省もせず「お前等が仕事をしな
いならば生かしておいても何の益するところもない故に全島の夷人を毒殺2煮殺して其の族を滅して
しまう」と威嚇した、夷人はこれを聞いて怒りまた恐怖しましたが、まさか毒殺迄するとは信じませ
んでしたし番人たちも毒殺の意志はありませんでした、ところが偶々乙名キンキチが長い間病で床に
在りある日平素好きな酒を呑みたいというので夷人達は運上屋に行き酒を要求しました、その時運上
屋には松前藩からの派遣の荷物改として竹田勘平が駐在して居りましたがこの蝦夷達に酒を与えまし
た、番人達はその夷人達が帰る時に「キンキチももはやこの酒が呑み納めだ可哀想な奴だ」と嘲りまし
たが夷人達は別に気にもとめず帰ってキンキチに酒を飲ませました、キンキチは喜んで大杯をあげて
おりましたが夕方から急に顔色紫紺に変じ苦悶甚だしく激痛叫喚して死んでしまった、弔いに寄り集
まった蝦夷共は死体の変色を見て皆怪しみ不思議がったが何故だか不明だった、そこで一夷人が進み
出で「これは和人が毒殺したのではないか」と言い出したので果たして毒殺か否か眞為を確かめる為に
夷人を運上屋にやって飯を要求しその飯を試しに老夷婦に食わせますと何故か其の老婦も死んでしま
った、恐らく偶然のことだったろうが夷人は悲痛な決意をして「前に和人が毒殺すると言ったのは本当
だった、座していてこのまま殺されるより進んで和人を??しなければなるまい」と遂に乙名キンキチの
弟マメキリを中心として壮夷二百余人が集まり夜闇に乗じて運上屋と船中に攻め入り斧、鋸、刀、槍な
どの防具を盗み去り続いて衣服雑穀を奪い遂に国後運上屋え荷物改めとして駐在になっていた竹田勘平
を始め支配人、番人等残らず殺してしまったのでした。
時に寛政元年五月二日のことであります。この
騒動勃発の前日松前藩の交易御用下役格長谷川仲右衛門という人が大船の船頭として国後に廻船して居
りましたが例の夷人達がかわるがわる二、三人ずつ船の側へやって来て「今日は国後に停泊せずに折り
返しなさい、途中で停泊してもよいからとにかくここを出帆せよ」と勧めますので早速折り返し出帆い
たしましたので、この騒動の難を免れたのでした。何故かというにこの人は夷人と接せるに廉直律義で
親切を尽した為夷人はこの人を信頼し、この人だけは殺してはならぬとあわてて返してしまったのであ
る。この事が松前藩主に聞こえ士分として取り立てられたとのことであるが、以上のことが主な原因と
なりこの騒動を勃発させたのである。
さてこの蝦夷共は竹田勘平一行を殺した勢いに乗じ全島の和人を皆殺しにせんとして泊で八人、
マキライで五人、トウプイで六人、古釜布で三人を惨殺しました、
ところが当時国後のキカナイに通事伝七と吉兵衛という兄弟が厚岸から
蝦夷六、七人を連れて来て逗留しておりましたが飯米が欠乏し止むを得ず
蝦夷を古釜布につかわし飯米を受け取りにやりましたが待てども待てども帰りません。
遂に一粒の飯も無くなり二日間蕗を食べて飢えに堪え浜小屋に仰臥してはかない運命を磋嘆して居りますと、五月十日
昼頃夢ともなく現とも無く長幹白髪の老僧が枕元に立ち盛んに伝七を呼び起こしますので伝七は起きよ
うとするが耳鳴り烈しく目眩起きることが出来ません、そうしているうちに再び呼び起こすので何事か
と漸く起き上がりますと老僧の影は俄かに消えてしまった。伝七は自分の心の迷いか不思議なこともあ
るものだと思い浜に出て見ますと一隻の蝦夷が沖から馳せ入るのでさては古釜布から米を輸送してきた
かと喜んで迎えようとしましたが空腹がひどいため歩くことが出来ません。
小屋の入り口に寄りかかっ<て眺めておりますと常に出入りする潤に入らず岬の陰に着いたので
失望して小屋の入り口に横になって居りますと蝦夷十四,五人が手に手に凶器を提げ番屋小屋に乱入し
伝七を刺殺そうとします、伝七は驚いて痩せ腕を振り制しながらそのわけを尋ねると
一夷人が言うには「お前は知るまいがこの度国後乙名キンキチが久しく病酒を飲みたいというので飛騨屋に酒を求めて
飲ませたら顔色紫紺に変じて死んでしまった、また大釜で火傷をするやら毒飯で死んだものもある、
これは和人が前に言った様に我々夷人を皆
にするつもりのだ、故に我らは復仇のために竹田勘平始め和人悉く手殺した、お前も和人だから生かし
ては置けぬ」と大変な剣幕である、伝七はこれを聞き静かに言った「そのような事情なら俺も殺されるの
は仕方が無い、しかし俺が死ぬと厚岸の乙名イトコイに迷惑のかかることがある、イトコイに合せてく
れイトコイにあって話をしてからならこの俺をどうにでも好きなようにするがよい」と。マメキリ等はそ
れならばイトコイの返事のあるまで命を助けておくと言って船の中に禁束しました。マメキリは更に伝へ
七へ「お前は尊き仏像を持っているそうだがそれを渡せ、そうすれば命を助けてやる」と言います、この
仏像は伝七の信仰する貞伝和尚の阿弥陀如来の尊像で肌身離さず秘蔵して居たものでしたが
「この仏像は生命に替えがたい尊像であるが俺を古釜布に帰してくれるなら渡すし、
又他の交易品も渡してやる」との伝七の言葉にマメキリ等の心が動き弟吉兵衛とともに
古釜布に護送しました。伝七兄弟は約束通り仏像と交易品の酒、たばこ、木綿、小間物類など
倉庫を開けて渡しました。するとその珍しさと多きに驚き蝦船に積み込み兄弟二人を助命して立ち去りました。その後伝七兄弟は厚岸アイヌ八、九人を雇小船で
古釜布を出帆しチクセに泊まり厚岸の婆婆に逢いました、この婆婆はトウフイの酋長ツキノイの妾で相<
当権力を持っておりこの騒動を伝七兄弟に聞き和人を助けに来たのでありました。
そこへその子供のニシコマツケも来てマメキリに談判して
伝七から奪った品物を皆んな取返してくれました。そこで伝七は国後から択捉へ逃げ
シャナツへ行きますと同所の乙名イキトルプが之を出迎え厚岸乙名イトコイも居合
わせたのでこの騒動の話を再び聞かせますとイトコイは怒ること甚だしく俄かにマメキリ等兇徒を討た
んと準備をしました。イトコイは国後総乙名ツキノイの妻の子であります。一方マメキリなど兇徒は目
梨地方の蝦夷を扇動し始めました、目梨地方の蝦夷も兼ねてから和人番人の悪戯に心良くない時だった
ので忽ち和応じて和人を殺し標津で六人、忠類八人、古多糠五人、薫別五人、埼無異五人、オロマップ
八人計三十八人を殺し折りから忠類沖に停泊していた大通丸(神通丸と記した書もあり)に襲いました
。夜更けて陰雲天を蔽い、海静かに磯を洗う波の爽やかに伝うるのみなる船中に十四、五人の水夫達は
熟睡して櫓の音の近ずくのを知りません、マメキリは部下を指揮して船の中に乱入し手当たり次第に惨
殺しましたが、その仲の一人陸奥国下北郡大畑から雇われた水主庄蔵なる者が居り身に九ヶ所の槍傷を
負いましたが死んだ真似をして賊の目を晦まし賊等が去った間に小船に乗って逃げ僅かに死を免れまし
た。
厚岸アイヌの長イトコイ
さて前にも述べた伝七などを保護し兇徒を討たんとするところまで準備を進めたイトコイは、正に
出発しようとするところえ得撫から夷船八隻来ました。見れば国後総乙名ツキノイでありました、
ツキノイはこの騒動の話を聞いて「予出漁せず国に在ったら左程人数を殺さなくてもよかったものを」と嘆き
落涙数行和人の惨害を憐れみました。ここにおいて弟吉兵衛を松前に送らせてこの事変を報告させ、
イトコイ婆婆、伝七、ツキノイの三人は善後策を講じました。まず伝七は「国後の上乗役長谷川勘平を始
め七十四人もの番人、手代が殺された今日如何にしてこの始末をしたらよいか」と言いますとイトコイ
は「和人を虐殺したからには必ず松前家から問罪の兵を向けられるであろうからその以前にこの度の徒
党した者どもをムシリケシへ一ヶ所に集め置き松前家の処置を待つことにしてはどうか」
と言い出しました。ツキノエは自分の子セッパヤ及び親族の多くが賊に党していたので果たして
ツキノイがイトコイの発議に同意するか否か非常に危ぶまれましたがツキノイはやがて形を正し
「その儀尤もと思います、我が子セッパヤも兇徒に党してはいるが苦しくないから一緒に捕らえ置こう」
と堂々と述べました。伝七はツキノイの返答に忠信を感じ「その言葉大いに忠誠奇特で
あるからよくお上え言上し恩賞を取らすからその節は又十分に忠義を励むがよい、
そなたの心底を疑うわけではないが別心ない証拠に何品でも差し出せ」と申しますと
ツキノイは「それは容易なことではあるが旅の途中で何も宝とするものがない故に持ち合わせの
ラッコ皮を二枚と鷲の眞羽を差し出す」と述べ前に並べました。伝七はこれを受け取り
念の為預かり証と交換しました、義は此処に一決しましてツキノイは先ず帰って部下を
説諭するといって翌日シャナツを出帆して国後に帰り伝七、イトコイ、ニシコマツケ、
その外択捉蝦夷など二百夜余人十七隻の船に乗りその二、三日後シャナツを出帆しました。
その頃霧多布場所支配人肋右衛門荷物積み取の為野付に来て居りましたが
五月十五日標津に来て惨害の後を視察しますと忽ち蝦夷い追われ逃れて厚岸に帰り
六月一日福山に着きその報告をいたしました時に松前氏は第十三世道広藩主でありましたが
、この事変を聞き震怒し彼等を皆殺しにして亡霊を弔はんとして
勇士将卒二百六十余人を選択して遠征させましまた。
隊 長 新 井 田 孫 三 郎 正 壽
隊 頭 松 井 茂 兵 衛 廣 次
監 軍 松 前 平 角 則 忠
弓 の 間 蛎 崎 文 吾 兵 衛
土兼水軍 秋 山 角 左 衛 門 光 和
警 衛 高 橋 喜 兵 衛 訓 治
土 谷 兵 太 忠 喬
新 井 田 文 太 夫 友 充 外 二 名
医 師 村 岡 雄 栽
伍 長 平 沼 清 六 貞 忠 外 一 名
卒 長 石 黒 文 蔵 外 五 名
巡 視 新 谷 六 左 衛 門 行 重
外に兵料運送の稟人烽子、告急使訳長、火砲匠薬兵夫、甲匠弓箭工、火薬匠切磋工、船長,船夫、
船匠旗牌手鼓吏、吹角煙火隊、?養卒の炊子、馬夫、雑夫等堂々たるものにして兵器は、
大砲火術万人、敵飛火槍等の巧器、望車雲機火車、砲楼塔車弓箭藤牌狼先矛?槍?類、
工藤清左衛門長旧裂くの神火銃、松前平角則忠製の霹靂万勝輪砲火を整え隊伍整然として
六月十一日福山城を出発しました。
伝七と約束したツキノイは衆夷に諭して言うには「それ人の世に在るや礼儀より重きは莫し
彼我各尊卑あり松前の家従非理を以って我徒に加えなばその長に告げて曲直を正すべし
告げずして妄に害を加うるはその非我にあり松前太主の恩を承る年あり米酒衣服日用
什器皆給を太守に仰ぎ我が祖父より以って子孫にいたり安屋衣食し飢寒を免れ快楽を享くるは
これ誰の賜ぞ我が子既に天に背き賊に党す我何を得て子とせん仮令単身賊を討ち
骨を沙土に曝すとも臭名を子孫に伝ふるを願はざるなり、兇徒若し禍を悔い順に帰せば我まさに
松前の将師にその免を訴えん」と説き聞かせました。
国後の蝦夷は山に登り畳壁を築き涅を掘り戦闘の用意をして居りまし
たがこのツキノイの説諭に服しついに帰順しツキノイに従ってノサップに来ました。
ノサップの乙名ションコ小使ノチクサ、厚岸幡羅山の酋長イジカリ、別海の酋長ホロヤ、
国後副酋長イコリカヤジン等能くこの説諭に従い蝦夷に説いたので漸く目梨蝦夷も帰伏して
ノサップに来て松前軍を待ちました、その数合せて実に二百余人であります。
松前よりの遠征軍は六月二十日までに厚岸に勢揃いをして七月八日ノツカマップに堂々到着しました。
愈愈七月十六日総乙名ツキノイ、イトコイ婆婆、ニシコマツケ等蝦夷百余人兇徒の蝦夷二百余人
総計三百五十余人を率いて?門に集め伏して命を待ちました。
そこで将軍は二人の伍長に命じて訳長を通じてツキノイに対して第一尋問が始まったわけですが
伝七がツキノイ或いはイトコイ等に二心無いことを細細しその忠誠を証明したので将軍はその労を
大いに賞め又ションコ等と共に叛いた蝦夷の予審をさせた、翌々日十八日は蝦夷の頭国後の
マメキリ外四人目梨のエロメキ外二人と和人を殺害した二十九人計三十七人を拘留しました。
二十日再び夷酋を集め罪の軽重、有無を決め刑罰を決断した。
結果三十七人は重罪として獄に下し、軽い九十三人を放免しました。
この時凶首にたいし「お前らは太主によって一命を助けられようとしている、
お前達が既に帰順してしまったのだから兵器などはもう必要なかろう早く結束して太主に献じてはどうか」
と申し渡しましたが凶首等は「我々は平素から漁業に従しているのだから兵器などは或筈がない
勝手に家の中でも探すがよい」と異口同音に言い誰も一口も答えない、
そこでジインカリ副酋長シモチを賊の中に入れて様子を探らせると賊等は兵器を
皆浜の砂に隠して或ことが分かったので探しますと夷弓の百二十張、矢房七十八、毒箭一千九百五枚、
槍戎五十七本、刀十八柄、短鎌二握出ました、
そこで将軍はこの賊まだ改心せずひそかに意図を包蔵しているのを嫉み悉く斬罪に処することに
決定されました。時は寛政元年七月二十一日ノツカマップ湾頭の黎明と共に陣営吹
角の声高らかに将士整然と武具に身を固め軍令により座列する茜の吉方に向って幔幕を巻きめぐらし一連の紅
旗を陣前に突建て光景厳峻たる中に討ち響く鼓に、一座襟を正せば訳長立って八人の凶首を囚禁の
小屋から連出る、やがて「先達国後島、目梨の騒動及びし儀は・・・
大勢殺害、騒動に及びし段不届きなり依って死罪を申し付ける」との宣言があり首を刎ねました、
たちまち悲鳴怒号の声陣外にも徹すると残りの二十九人の兇賊その騒然たるを聞くや激憤一時に発し
小屋を破壊し家財を提げ振り廻しつつ獅子奮迅の勇を振るって陣営に襲撃してきました、
松前軍は予めこの事在るを慮り非常時に備えがありましたから忽ちのうちに斬殺し更に大声で衆
夷に告げて「只今叛夷不法の所業があったので止む得ず武器を用いた、
尚今後も異変があれば直ちに征伐する!!」と申し渡しますと衆夷皆震?して首を垂れ陳謝しました。
そこで兇徒の首級三十七を塩蔵し右耳に名牒を貫き首?に収め首実検の凱旋の式を挙げ
翌二十二日軍列を正し東部各地の酋長数十人を呼び出して先例に倣い開国以来臨官から命ぜられた
国政の制令と諭告の式を行ないましたこの式を於牟謝という。
松前軍は二十四日ノツカマップ蝦夷に米九十俵、煙草百把、国後蝦夷に米五十俵、
煙草五把を与えそして今後とも交易、介抱その他につき和人が不正のことをしたならば
直ちに松前え訴え出るよう申し渡しこの事変も結末を遂げたのであります、
がこの時乙名や酋長らが松前に上がり藩主に拝褐謝恩のことを願い出たが乱後のこととて此地に
暫く留まり取り締めをすべきことを説き聞かせその代わりその子及び眷族を松前に上がらせる事
にし厚岸小使以下蝦夷四十三人を伴って八月五日将士はノツカマップに出発し帰途につき
九月五日福山城へ凱 旋しました。七日叛夷の首を立石野に晒し十一日藩主は蝦夷に
拝褐を賜い通詞をして命を伝えさせました、その内容は、イトコイ、ションコ、ツキノイを始め加勢した者の
格別の忠節とその労をたたえ、掟書を言い渡し漁業資材を与え産業の発展を言い聞かせたものである、
この時高田屋嘉兵衛この地方の官物運送を命ぜられる。これより嘉兵衛の漁業指導により施設、
生産も発展し現今に至るものである。 (本城玉藻編根室千島両国郷土使より)
難破船長人食い事件
国後蝦夷騒動記
逓送殺し
ヤオイタさん熊公と格闘
ヒグマと私
ハンタ−の死・九死に一生…
昔話1・思い出
昔話2・私がこの村に来た頃
昔話3・羅臼岳登山記
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