昔話






羅臼岳登山記

佐藤 廣
息子から再度強制されるままに羅臼岳登山記を、忘れかけた老脳の記憶を辿りつつ記して みたいと思います。私は今までに5回の踏破を行なって居りますがその中頂上到着に成功 したのが二回で後三回は雪、雨などの為に失敗して居ります、この一回ごとの登山記をこ こに書くことは重複にもなりますし、又莫大な紙面をも要しますので一番最後の登山につ いて書いてみたいと思いますが、その前に前四回の概要だけを書いてみます。 先ず第一回目は昭和2,3年と記憶して居りますが最初の登山としては珍しく成功した例で 方で頂上まで達しました。第二回目はそれから5年ほど過ぎた8月の末、この山を裏の方か ら登って見ようと羅臼より船で知床を廻りウトロから登ることになり、三国さん、検査員の 佐藤さん、役場の杉山さん、西井誠○さん、鈴木音治さん、小玉さん、清野さん、松原さん 、門間さん、村田さん等15、6名の一行でしたが、三国さん、村田さん、西井さんの方は 何かの都合でウトロから船で引き返したと思いますが、結局一行12名になりました。ウト ロ部落では非常な歓待を受けビ−ル、サイダ−など御馳走になり翌朝ウトロの山林さんが道 案内をして呉れて登りましたが、頂上近くと思われるところで濃霧に逢い、一寸先が見えず 遂に雨となりましたが強引に頂上に達しました、しかしその後の登山でわかった事ですがこ の頂上と思われたのは実は雨の為によくわかんなかったんですがすぐ下隣の山の頂上だった んです、それでこの登山は失敗に終わった訳です、何しろこのときの雨はひどかったですね 、風と一緒に山の下の方から吹き上げていました、つまり雨が下から降っていました。 第三回目は昭和12年2月スキ−で踏破を試みました、鈴木治さん、三国千早さん、竹田さ ん等7人の一行だったと思います、スキ−の登山は案外楽に登れましたが上に登るにつれて 雪が固くなりスキ−がガラガラと流れて危険でした、中断からは全くスキ−は用を成さなく なりました、氷なのです、しかも風のために氷が凸凹甚だしく波のようになっています。 中段からはスキ−を脱ぎ「カンジキ」をはいて「トンビ」で一歩毎に足場を作って一足一足 と登りました、危険この上もありません。一足間違えば谷底まで眞逆様に一すべりに墜落し ます、それで遂に断念しました。登る時はいいとしても下る時の危険は一通りではないと考 えたからです、すぐ頭上に頂点を見ながら戻らなければならないと思えば実に残念でした。 とうとう雪の羅臼岳を征服することが出来ませんでした。ところがその年の八月すなわち昭 和十二年の八月中野一郎先生、吉田史條碑七医師、竹田さんの三人が登山を決行するとのこ とで案内人に頼まれて又しても登山の一行に加わりました。これが四回目です。この登山は 非常に無理をしましてその日の中に頂上の真下の「ビラ」(急な坂)まで行ってしまいまし た、ところが夕方からぽつぽつ降って来た雨が「ビラ」についた頃から本格的に降り出した 、暮れて来る「ビラ」のこととて薪はない。勿論小屋など作られない、ご飯も焚けず万策尽 きて雨の中ではあったが這松の下にもぐり込み残りの飯食って四名くっついて横になりまし た。一晩中の雨に全身から持ち物までずぶ濡れ、朝食は干魚(ぬれてぐちゃぐちゃなもの) を少しづつ食って這這の態で逃げ戻りました、この時も頂上を目の前に見て戻るという失敗 の巻きでした。 第五回目!!今までの登山の中で一番恵まれたのはこの時だろう、案外楽に往復できたし、 天候も上々で恐らく一番記憶に残る登山だったと思います。 昭和十二年八月二十三日この日この村独特の海霧の立ち込める朝六時一行十名は羅臼校校庭 に集合いたしました、藤田仙太郎(37)、宮崎勝美(27)、西井誠誘(39)、山本勝蔵(41) 、鈴木次郎(39)、味噌政七(22)、金森登米治(39)、原田仙市(43)、亀倉剛信(49) それに私が案内役として計十名の一行でした。話は前後しましたが校庭に集まった一行は羅 臼神社に祈願し御真影奉置堂の前で記念撮影をするなど、六時三十分一行は出発しました、 途中発電所で十分程休憩したのみで八時十分、二又(川が大きく二つにわかれているので通 称二又という)に到着しました、この頃から空模様が変わり八時半頃よりポツポツと大粒の 雨が落ちてきましたが一行は歩き続けました、ちょうど九時になると急に雨が強くなり歩行 にも困難になったので一同は「帰ろう」と云い出しました、ところが西井氏は「ここまで来 たものを・・・」といかにも残念聡です、私としても何度失敗しているかわからず雨くらい に驚かないので「頂上まで通そう」と力つけました。ちょうどその辺一帯は大蕗の林でした 下の方では見れない大蕗で我々がちょっと腰を曲げると楽に雨宿りはできました。三十分ほ ど待つとどうにか雨は止みましたので再び元気をつ歩き出しました。石原、崖、川の中と進 んできたので皆非常に疲れたようでしたが午後一時三十分頂上まであと一息というところま で到着したのでここに一夜を明かすことになり宿泊の準備にかかりました、天気さえよけれ ば国後の裏の海まで見えるのですがその日は足元一面の雲でした、ただ「お花畑」と称する 高山植物の原が鮮やかで今でも目に浮かびます、「よし」を切って小屋の屋根を作る人、木 を集めてまきを作る人、草を刈って座席を作る人、またたく間に泊まり小屋ができました。 午後三時漸く一行は家の中に落ち着いて一服つけました、家の中は非常に立派になった、原 田氏がどうして持ってきたものか「ゴザ」を敷いたり、又各人がリックを座布団代用にした りして途中の苦しさ、危険さ、楽しさを語り合いました。やがて飯ごうのご飯も炊ける頃に なるとよく持ってきたと思われる程沢山のご馳走が取り出されました、缶詰、ミルク、キャ ラメル等々一番驚いたのには酒一升瓶二本、四号瓶一本、二合瓶一本と計二升六合の酒まで 運ばれたことです。「とにかく一杯」と、すぐ様杯が重なりましたが酒飲みとしては三、四 人しか居ず、何としても酒は余ります、西井氏は「この酒を明日まで残したのでは又明朝飲 むと云い出すに違いない、登山には酒は禁物だから」と飲めない私共まで手伝ってどうにか 二升六合を平らげてしまいました。そして愈愈ご飯を食べる段になると誰かが「臭い」と云 い出しました、何の匂いかも解らないが皆で「臭い臭い」t騒ぐ出した、これは硫黄の匂い だったのですが、この匂いが嫌でご飯を食べない人も二、三人あったと思います。 そうこうしている中に、外へ出た誰かが「笛だ」と叫んだ、外はいつの間にか暮れて丸い赤 い月が出ていました、なるほど誰かが尺八を吹いている、家の中に戻って調べますと山本さ んが居ない、気がつかなかったが臭いと云って飯を食わず出て行っていたのでした、皆一瞬 声を静めました、冴えた月と共に流れる尺八の音を聞いていると正にこの世のものとも思わ ませんでした、一行は愈愈疲れて寝ることにしました。草の上にしかも寝る場所が小高い土 手になっているので寝心地の良さ又格別でした、どのくらい寝たかふと目を覚ますと猛烈な 寒さです、金森さんが起きて火を焚いています、一敷も集めた薪がいくつも残っていません 二、三人で月明かりに木を集めどんどんと焚して再び寝たが寒さのため時々目を覚まします と必ず誰かが火をつついています、漸くのことで夜を明かしました、朝食を済まし、五時四 十分小屋を出発しました、小屋より上は一帯の這松でこの上を飛んで歩くのは非常な苦労で した、午前九時遂に頂上に達しました、この時の感激は童心に返ったとでも云いましょうか 一様に今までの苦労を忘れたような明るい顔でした。一斉にラッパ(熊を追う為の小さな鳴 り物)を吹き、君が代を合唱し宮城遥拝、戦没将兵の黙祈をなし万歳三唱正に感激の一瞬で した。この年になってこれ程嬉しかった事は前後を通じて恐らくなかったでしょう、真下は 一面の雲海で国後も海も見えず遙右手には阿寒の雄姿、後ろは箱庭の如き北見、絶景この上 もありません、頂上で二時間半ほど休憩し高山植物を取ったり、スプリングの強いソフアの 如き苔の上に転がったりして遊び下山にかかりました、下山は登る時よりも楽に下りまして 午後七時二十分全身綿の如く疲れて発電所に到着しました、この時の嬉しさも又忘れがたい ものでした、後一時間ほ程で家まで帰れるのですが、どうしても歩く気にならず遂に泊まる ことに決定しました。その日の発電所の宿直は朝倉さんだったと思います、温泉に入りご飯 を食べると我慢し切れず横になってしまいました、朝倉さんの浴衣を借りた者はまだいいと して奥さんの浴衣から襦袢に至るまで借用し、赤い着物、白い着物、又縞の着物とそれぞれ 横になって伸びた格好は非常に滑稽でした、翌二十五日午前六時出発、七時に遂に無事に然 もそれぞれ記念の高山植物を背負って羅臼神社に到着し、神社参拝の後、万歳三唱して解散 しました。登山出発の時のキリリとした身支度もどこへやら、服などぼろぼろに破れ、リッ クは泥だらけと云う見事な格好でした、兎に角遂に第五回目に完全に羅臼岳を踏破したわけ です。 発電所、手前間欠泉 *羅臼村郷土史より転載



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