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銀の海峡 海峡の詩
最後の秘境・知床羅臼の世界


 第二章    −魅せられし者たち− 
 美しさゆえか,温かさゆえか、人は羅臼に魅せられてゆく

知床羅臼は、今も昔も旅人の憧れだ。学園紛争に敗れた若者たちが、 自分を探して旅に出たカニ族時代。広大な大地を疾走する快感を求めて バイクの若者が大挙して來道したバイク族の時代。 移り変わっても、知床が旅人の目的であることは変わらない。 青年時代の思い出にふたたび巡り会った画家と、 魅せられた結果、住むことを選んだかっての青年。 知床の自然に、羅臼の港町の人情が加わるとき、 旅は思い出から、生きる目的へと昇華下した。


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…魅せられし若者たちT…
オホ−ツクの海に出会いの歌が聞こえる


関屋敏隆と知床旅情

平成11年、スロブァキア政府が主催する世界絵本原画展で、「金のりんご賞」をしたのは、 日本の絵本作家関屋敏隆氏(以下敬称略)の作品「オホ−ツクの海に生きる」であった。
「オホ−ツクの海に生きる」は羅臼の海に生きる孤独な老人が主人公となっている。 昭和の中頃まで、羅臼町の一部の網元では、番屋に置いた網をネズミから守るため猫を飼 い、この猫たちのために、冬季間、「留守番さん」と呼ぶ番人を置いていた。 主人公の彦市は「留守番さん」であった。 「留守番さん」となって、、一度番屋に取り残されたら最後、翌年の春に迎えが来るまで 、全く孤独の生活をしなければならない。ケガをしようと、重病になろうと、結氷した海 を割って、助けに行くことはできないのだ。物語で彦市は、海水にさらわれた猫を助けよ うとして、命を落としてしまう。絵本では、そんな過酷な番屋生活、そして知床の厳しい 自然が、関屋さんの迫真運筆によって描かれている。
「オホ−ツク老人」 「留守番さん」の制度を最初に報告したのは、作家の戸川幸夫氏(以下敬称略)であった. 作家戸川幸夫は昭和34年から39年にかけて、十数回に渡り、知床半島を訪れる。 34年9月には、漁船に同乗し、ウトロから羅臼へ、番屋を訪ね歩きながら、半島を一周 した。「赤岩に行くつもりだったが、行けずに、私の乗せてもらった種田番屋の小船はニ カリウシに入った。巨大な怒涛に翻弄されて、小船はいくど転覆しそうになったかしれな い。しかし、船頭の沈着と熟練がそれを救った。沸き立つ波涛、暗礁を縫って、ニカリウ シの種田番屋に近ずいたときは正直言って、私は嬉しくて涙で目が曇った。 ・・・次の日もその次の日も海は荒れ続けた。その間中私は種田番屋に釘ずけされていた。 種田さんは親切に番屋の事や、北の海のことをいろいろ教えてくれた。私は種田さんの話 を基にして『オホ−ツク老人』という小説を書いた。
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種田さんは、私が辞去して間もなく、この荒海で亡くなった私の小説のように、暗礁にた たきけられた悲壮な死であった」(「知床半島」戸川幸夫・新調社1961)。 関屋さんの絵本「オホ−ツクに生きる」は、戸川幸夫の小説「オホ−ツク老人」を絵本用 に再編成し、戸川幸夫の長女戸川文子さんが文章に執筆した。 さて戸川幸夫のこうした体験から生まれた小説「オホ−ツク老人」が雑誌に発表されたのは 34年10月。発表と同時に、反響を呼び、当時、 人気絶頂にあった映画俳優の目にとまった。 森繁久彌氏(以下敬称略)である。
「地の涯に生きるもの」 森繁久彌が昭和30年代の10年間に出演した映画は、実に119本にのぼる。今でこそ 芸能界の重鎮としていぶし銀の演技を見せるが、当時は、喜劇映画「駅前シリ−ズ」「社 長シリ−ズなど、喜劇役者として国民的人気を集めていた。 「オホ−ツク老人」に感激した森繁久彌はすぐさま映画化を思い立った。しかし、どちらか といえば暗いテ−マ−であって映画会社は撮影の許可を下さない。それでも、森繁はひる むことなく、森繁プロダクションを立ち上げて、昭和35年3月から7月にかけて、羅臼 と斜里でロケに入った。小説「オホ−ツク老人」は、同年末、「地の涯に生きるもの」と題を 変え、森繁プロダクション第一回作品として世にだされたのだ。 当時を知る志賀賢治さんはふりかえる。 「開闢以来のロケというんで、村を上げて協力したわけです。大人から子供 までみんなエキストラとして協力した。そうしたら森繁さんは僕にこう言 いました『僕たちは役者だから演技で泣くし、泣かせもする。でも今回は 本当に羅臼の人に心底、泣かされた。演技ではない、本当の涙を羅臼の人 に教わった』」。 映画の前年、4月6日。突然の突風が知床連山から国後島に向って吹き、 実に89名の犠牲者が出るという天災があった。「ヨンロク突風」として今 も語り継がれているこの災難の翌年にロケは行われ、しかも、映画の中に は、この「ヨンロク突風」を再現するシ−ンもあった。「89名の犠牲者と いえば、浜の人々はほとんど全て関係者です。親兄弟夫を亡くした人も大 勢います。その人達がエキストラとして災害を再現したんです。思い出し て涙する人も大勢いました、そうした人にも『もう一度』と演技をお願い することもありました。それでも快く、協力してくれた。 そうした羅臼の人に森繁さんは感動したんですね」。
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4・6突風
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映画に協力してくれた羅臼の人々の気持ちに報いようと、森繁久彌はひそかに歌を作っ た。ロケが終わり、あすでお別れという晩に、森繁は俳優仲間とともに当時の羅臼村長 谷内田進氏宅を訪れ、「この歌を歌ってほしい」と新しい歌を披露した。歌のタイトル は「さらばラウス」。後の「知床旅情」である。谷内田村長と森繁久彌は同じ年生まれ で、馬が合い、家族ぐるみのつきあいが後々まで続いていった。翌朝7月17日 「朝、栄屋(現栄屋ホテル)に迎えに行くと、 詩のようなものを書いた紙が玄関に張って ある。どうしたんだとスタッフに聞くと 『昨夜、大変だったんです。森繁さんが、歌を作った、 みんな覚えろ、と言って一晩中練習させられたんです』という。 そうこうしているうちに、出発の時間になった。 見送りの人は400人くらいになったんじゃないだろうか。 森繁さんが出て来て、挨拶をする。 『今の日本、人情は紙のように薄くなってしまったけれど、 今回は本当に羅臼の人たちの人情に感激させられた。 後々のために、お礼に歌を作りました』とギタ−をもって歌いはじめたのが 『知床旅情』。難しい歌でないし、歌詞は書いてあるし、何回か歌ううちに、 歌が全員に広がって、感動的な別れになりました」。 こうして昭和の名曲「知床旅情は」誕生した。 鳥
「知床旅情
森繁が羅臼町民を前に「知床旅情」を披露していたおよそ1ヶ月前、東京では 日米安保条約の改を定阻止しようと、全学連を中心としたデモ隊が国会を取 り囲んでいた。5月26日には17万人が国会を取り巻き、6月4日の反安 保統一行動には、全国およそ560万人が参加したといわれる。この頃から 6月18日の安保自然承認の日まで国会は連日デモ隊に包まれた。 戦後最大の政治運動であった反安保闘争をリ−ドしていたのは全学連の学 生たちだった。安保闘争に向けたエネルギ−が大きかっただけに、安保条約 が自然成立し、反対運動の敗北が決定すると、彼らの政治情熱はやり場を失 い、挫折感に包まれていった。そうして現状から逃避するように、若者たち は北へ北へと旅に出た。リュック一つで北海道を貧乏旅行する若ものを「カ ニ族」と呼ぶようになったのもこの頃である。大きなリュックを背負った彼ら は、狭い所を通るときにリュックが邪魔になり、自然とカニ歩きになる。そ んな姿からカニ族と呼ばれるようになったという。 そいうカニ族の若ものたちに「知床旅情」は愛唱されていく。 昭和41年9月。「さいはて」を求めて知床を放浪する「カニ族」の若者の 中に、京都市立美術大学の学生だった若き日の関屋敏隆がいた。
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日本を歩いて絵かきになるんだ 「当時の美術大学では、反戦集会や授業料値上げ反対、設備改善要求など、 もろもろの集会があり、騒がしい一面もありました。大学生活の4年間は短 い。日本をもう一度見直す機会は、今しかない。そこで旅に出たのです。当 時は、フオ−クソングの盛んな時代で、旅に出たくなるような歌もあって、 夜汽車にあこがれました。知床を選んだのは、 先輩から『旅をするんなら北海道、知床はええぞ−』と教えられたんです」。 こうして、関屋さんは夏休みの一ヶ月、25日間の周遊券を片手に京都から 北海道へと旅立ち、「知床旅情」と出会う。 宗谷岬をまわり北海道を半周して知床へ。「何しろ貧乏でしたから、ほとん ど野宿、たった一回だけ宿に泊まったのが字登呂ユ−スホステルだった。そ のユ−スで『知床旅情』を知ったんです。ミ−ティングの時、森繁節の好き な私は、みんなで何回も歌いました。じ-んときて体がふるえました。」 そして歌に誘われるように羅臼を訪れた。 「羅臼川の奥には羅臼岳がそびえ、根室海峡の向こうには北方領土の国後島 。石が置かれた屋根、風雪に耐えてきた色あせる家々。町中を砂塵が舞い、 そらにはカラスが騒ぐ、いかにも『さいはて』といった感じでした」。 昆布が干される浜辺で、生涯忘れられないふたりに出会った。札幌から歩い て旅をしている画家の佐藤秋水さん(東京美術専門学校-現東京芸大-日本画 出身)と二日目には大阪から自転車でやってきた沖縄の宮城丈二君。「三人 でづたいにセセキまで三日間。楽しかった。海釣り川釣り、食事はすべて魚 ばかり、いくら食べても満腹感にならない。セセキの温泉につかって、みん なで『知床旅情』を合唱。いい気分になっていざ帰り支度、そこへ温泉の持 ち主の漁師さんが現れて『礼を言って帰るのがひとのみちでは』と一言。で もその漁師さん、お土産に昆布をくださった。
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二人との出会いも、漁師さんも昆布の味も忘れられない思い出です」。 このときの感動が原点となり、関屋さんに「日本を歩いて絵かきになるんだ 」という決意を固めさせる。『知床旅情』に出会えて人生が変わった。『旅』 という人生の目標が出来た。アルバイトの関係で一ヶ月遅れの旅立ち、羅臼に 着いたときは9月初め。野宿はつらい。夜霧に濡れると本当に冷える。 震えながら夜明けを待つ。待ちに待った朝日が昇る。 暖かく神々しい荘厳なまでの美しさだった。自然の中に包まれ、寝起きできる幸せ。 こんな贅沢なことはない。絵は自然と人々の暮らしと共に生まれると思ったのです」。


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加藤登紀子 関屋さんに画家になることを決意させた「知床旅情」は、4年後の昭和45年、 シャンソン歌手加藤登紀子さん(以下敬称略)のLP「日本哀歌集」の一曲として 取上げられ、「西武門哀歌」のB面としてシングルカットされる。翌46年になる と、B面であった「知床旅情」がじわじわと売れ出し、A面にして再発売。国民的 ヒット曲となった。 知床旅情が生まれた昭和35年、、高校生であった加藤登紀子は全学連高校生会 議の旗のもと、安保反対のデモ隊の中にいた。東大進学後も学生運動に奔走。日 本アマチュアシャンソンコンク−ルに優勝し、プロ歌手となった40年以降も、 学生運動のシンパであり続けた。全国で学園紛争が吹き荒れた43年、学生運動 のリ−ダ−であった藤本敏夫氏と知り合い、恋におちいる。闘争・逮捕・投獄・ 闘争・逮捕・投獄を繰り返す運動家と人気歌手の逢瀬は限られたものであったが、 その限られた時間に会うと必ず藤本が歌った歌が「知床旅情」だった。 森繁の歌った「知床旅情」が60年安保に敗れた若者たちの傷心を癒したように 加藤登紀子の歌った「知床旅情」は70年学園紛争に敗れた学生の傷心を癒していった。
−1986年(昭和61)知床ポ−トサイド・フェステイバル(羅臼漁港特設会場)で、 はじめて発祥の地羅臼で「知床旅情」を万感をこめて熱唱。 2000年(平成12年)9月20日羅臼町100年記念事業 加藤登紀子コンサ−トで子供たちと「知床旅情」を歌う。− 「はじめて森繁さんのレコ−ドを聴いたとき、すごくシヨック でした。嫋嫋とした人の情が空まで届くようなこうした歌を、 過去に私は歌ったことがあるだろうか。私も唄わせてもらって シンガ−ソングライタ−として、私の世界を大きく広げてくれました」 「種をまいて育てるように、歌を育てていきたい」  加藤登紀子
ともしびコンサ−ト 関屋敏隆さんが、再び羅臼の地に足を踏み入れたのは、森繁久彌が「知床旅情」を 作ってから30年後、加藤登紀子がレコ−ディングしてから20年後の平成3年の ことであった。34年前、カニ族として道内を放浪した若者は、 いまや第一線の絵本作家となっていた。 「土砂降りの雨の日でした。私の釧路の知り合いの方から頼まれて、関屋先生を羅 臼のバスタ−ミナルに迎えに行ったのは、先生は、『ロング先生と犬のシロくん南 の島に行く』という絵本の続編を書くために、羅臼にいらしたのです」。こう話す 菊池理恵子さんは、羅臼の公民館図書室に勤務するかたわら、子どもたちに本を読 み聞かせるサ−クルに参加していた。そうした読み聞かせの会に関屋さんの絵本の フアンがいた。「本当に先生は感激やさんで、なにを見ても感激するのです。私の 友達に朝鳥義喜さん、山本勤さんという芸術に詳しい漁師の方がいらっしゃるので 、番屋の風景も楽しいだろうと、案内したら、3人は意気投合して、すっかり男の 友情が芽生えたようです。学生の時に出会った『知床旅情』が忘れられないという ので、当時の公民館館長であった戸田武男さんが、特別に町が保存していた映画『 地の涯に生きるもの』のフイルムを出して上映したんです。昔の映画ですから、と ころどころ切れていました。それでも館長は根気よく直ししながら、最後まで見せ てくれました。もし、あれを再び見なかったら『オホ−ツクの海に生きる』は なかっただろう。先生は後々も言っています」。



菊池さんに紹介された山本さんは振り返る。 「図書館の菊池さんに紹介されて先生と、ライダ−ハウスにもなっていた朝鳥さんの 番屋で会いました。泊まるところが決まっていないとい、と言うから、うちに泊まっ ていただいたんです。次の日かえるというので、朝鳥さんと3人で、野付半島なんか 見物しながら、厚岸の民宿まで送っていったんです。ところが、私は厚岸の民宿で、 朝鳥さんとビ−ルを飲んでしまって、車で帰れなくなってしまったんです。 先生帰れなくなってしまいました....。 それからですね、いろいろ、つきあいがはじまったのは。 驚いたのは、後で先生がその3人旅を版画にして送ってくれたんですよ」。 当時、山本さんは隣人で友人の朝鳥さんとともに「ともしびコンサ−ト」と いうアマチュアバンドコンサ−トを聞いた。関屋さんが平成10年に発表し た「日本をあるいて絵かきになるんんだ」という絵本には「ともしびコンサ −ト」の場面が出てくる。名前こそフィクションとなっているが、 朝鳥さんも、山本さんも、菊池さんもこの絵本に登場する。 「はじめてあったときに、その場で版木から刷って、版画の名詞を渡してく れたんです。感動しました。知り合ってからは、先生の作品をずいぶん送っ てくれたんです。高名な先生なのに偉ぶるところが全然なく、正直な方です から、引き込まれますね、人をとても大切にされる方です」と、朝鳥さん語る。 羅臼での「地の涯に生きるもの」との再会に加え、羅臼での人々との出会いが、 関屋さんの創作意欲を大きくかき立てて言った。
オホ−ツクの海に生きる 「私は年齢の節目にこだわるのです。羅臼を訪れた時は45歳だった。あと5 年で50歳になる。次の絵本を50歳の節目にしようと考えていた。 そのとき羅臼で、そして自分の原点であった『知床旅情』に再び出合った。 だから、全部つながっているんです。羅臼の、知床の自然、若い日の思い出 さまざまな人々との出会い、それらがすべて総合されて、あの本ができたんです」。 「最初、『オホ−ツク老人』の物語を絵本にしようと出版社に持ちかけたら、子ども 向きじゃない、テ−マ−が暗い、と断られました。4社ほどまわったんです。そして 5社目のポプラ社の部長さんが、はじめて興味をしめしてくれた。ところが『何か足 りない』という。それで、一から描き直すことにしたのです。 この部長さんは、今はポプラ社の社長です。 よおし勝負の時が来た。知床の自然、海、生き物、人のぬくもり、すべて描ききって やろう。自分の思いの丈をすべてぶつけてやろう、そう思ったんです。 そしてとにかく歌の聞こえる絵本にしたかった」。 絵本「オホ−ツクに生きる」の製作は平成5年頃からはじまり、出版の前年には他の 仕事を断って、これにのみ打ち込むほどの入れ込みだった。「モノクロのコピ−だっ たんですが、見た時には感動で声がなかったですね、厚岸に向かう道すがら、先生か ら『オホ−ツク老人』の絵本を作りたいという話は聞いていたんです。でもまさか本 当になろうとは。かって映画で見て感動し、今、再び感動している。二度感動させて もらいました。実は、それ以前に下書きを見せてもらったことがあるんです。そのと きは子ども向きの切り絵風だった。ところが、送られてきたものを見ると大人向けの 絵になっている。それにも驚きました]朝鳥さんは最初の印象を語る。原点に返ると いう言葉にふさわしく、作風も一変し、製作も学生時代に専攻していた型染版画によ るものだった。平成8年7月にポプラ社から出版された「オホ−ツクに生きる」は、 冒頭で紹介したように、第17回プラティスラブァ世界絵本原画ビエンナ−レで「金 のりんご賞」を受賞したほか、国内では第44回産経児童文化賞美術賞を受賞した。 小学校の版画、図書館バスの側面、観光ポスタ−....。今、羅臼の町にはいたるとこ ろに関屋さんの絵が使われている。羅臼と関屋さんとのつながりは、絵本作家とロケ 地の関係を超え、羅臼のまちづくりに深く結びつこうとしている。 関屋さんとの出会いから10年、朝鳥さんは50歳を目処に漁師を辞め、 写真家の道を歩みだした。山本さんは、父の死を契機に休止していた 音楽を再会し、再び「ともしびコンサ−ト」を開こうとしている。 20年前に関屋さんが羅臼から受け取った人の情という贈り物は、今、 作家活動を通して、関屋さんから羅臼の人々に返されている。
関屋敏隆さん補筆−1
森繁さんに逢いたい 絵本「オホ−ツクに生きる」が出版された後も憧れの森繁さんにお会いできる日まで 2年ほどかかりました。全教育長の小野寺賢二さんから山口秀和さんをご紹介してい ただき、平成10年「山口サンタ50周年記念祝賀会」の折、前町長の佐藤盛雄さん の紹介で会の発起人である森繁さんにお会いできました。直接絵本と原画(レプリカ) を贈呈。もう感動で、体が震えました。翌日、絵本と「オホ−ツクに生きる」の表紙の 原画を送りました。ほどなく、森繁さんの娘さんである和久さんから 「父は涙を流してあの本を読みました。先生から頂いた絵はての届くところに飾ってあります」 というお礼の電話があり、あわせてサイン入りの絵本が届けられました。 そこには直筆の次のようなメッセ−ジが落款とともに記されていました。 「地の涯に生きるもの、長い時間をかけた映画ですが、 この絵を30年かけて書かれた画伯もえらいもの」。

関屋敏隆さん補筆−2
ひとつの歌と一冊の絵本 「知床旅情は人生の応援歌。絵本「オホ−ツクの海にいきる」の出版は 私の人生の証です。二つ並んで、これからも心に生き続けてくれること でしょう。「オホ−ツクの老人」のヨウ壁原画製作では工藤勝利さん。 「オホ−ツクの海に生きる」の原画展には前公民館長の横岩信子さん。 羅臼の絵本を作るたびにチエックしていただいた志賀謙治さん、そして 、町の皆さんとの出会いもまた人生の誉れです。昨年の羅臼町100年 記念式典では、辻中義一町長より感謝状をいただき誠に光栄でした。私 には、父親が転勤族だった為、ふるさとがあちこちにありますが、羅臼 町は、今では私にとって第一のふるさとのような気がします。

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森繁久彌

戸川幸夫 


型染版画家・関屋敏隆

*映画”地の果てに生きるもの”のビデオがあります
御覧になりたいかたは知床倶楽部へおより下さい