カヤック班

2012.7.14〜15 知床岬

天気
曇り、晴れ
参加者
佐々木、渡邊、石田、森川、千葉、武田、長屋、石谷
所要時間
 
ルート

相泊〜赤岩往復

2012年7月14日から15日、一泊二日の相泊〜知床岬の往復ツーリングの顛末記を書くことになった。 今回の記録者森川の自己紹介を簡単に。釧路市在住、シーカヤックを始めたのは15年ほど前、厚岸のカヌーとカヤックのイベントでローリーイネスティラーにあってからカヤックが私に憑依した。佐々木隊長との関係は12年前、転勤で2年間羅臼に単身赴任した際に佐々木隊長や「まんさん」こと渡辺健璽さんと邂逅。私の夢、知床を漕ぐは現実となり以来12年間毎年一度は知床岬を廻っている。私と佐々木隊長は北海道一周中を志し釧路から網走までは漕いだが以降は行程の関係上、車での移動の困難さにより中断したまま。目下最大の懸案事項である。再開したいと思う今日この頃だ。

 さて、今回の相泊〜知床岬往復は総勢8名 シングル4艇タンデム2艇という構成。全く初めての人もいれば、自分で漕いで船酔いする人もいるという組み合わせ。佐々木隊長の以下8人の隊員がアブラコ湾を目指す。

7月14日 5時30分相泊集合、前日羅臼入りしていた私は2時間睡眠と二日酔いで頭が朦朧とし5分ほど送れて到着。他の隊員達は艇を浜に並べ積み込みの準備をしている。気になるのは風と波の状況、今は良く見えても、この先どうなるかわからない。今日が良くても明日がどうなるかわからない。行って見なけりゃわからない世界だ。ラダーやシートトラブルのため出発がもたついたが、漕ぎ始めの高揚感と期待と不安の中、まんさんの先導で順調に進んでいく。

 崩れ浜付近で妙なうねりがある。風は追い風でさほど強くないが干潮でうねりが暗礁を叩き波を立てている。観音岩に到達しても、いつも遊ぶ水路を通らず一路、休憩場所のモエルスを目指した。モエルスでしばしの休憩、その後は心配したペキンの鼻もうねりがあるくらいで問題もなく通過。今回の唯一のトラブルは私です。念仏岩前の岩礁地帯で何度かに一度来る大きな寄せ波に持ち上げられ、私の艇の航路が大岩に変った。艇は大岩に船首を強打し、引き波により岩と岩に捕まり、船首がガリガリガリ岩肌に白い縦長な白い線を引きながら下がっていく。そこへW艇が突撃してきた。幸い誰にも怪我もなく、カヤックの傷も自力で修復可能な程度。

 さて一行はカブト岩も三角波地帯も、赤岩も何事もなく通過し、ただただ変なうねりに慄きながら進む。次の休憩ポイントは赤岩で一人番屋に住みながら夏の間、昆布拾いを続ける藤本のおばあちゃんの番屋前。そこで犬たちの歓待を受ける。おばあちゃんは家族の反対を押し切って昆布拾いを続けて入る。熊との争った逸話もある。90まではやめないという。森繁久弥の「地の涯に生きるもの」は冬場の番屋を舞台にした陰鬱な雰囲気があるが、女版「地の涯に生きるもの」時世を反映して元気と活力に溢れる。藤本さんのおばあちゃんは赤岩から文吉湾の公衆電話まで孫に電話をかけに行くこともあるらしい。我々の足でも1時間30分はかかるだろう。

今回の最終目的地アブラコ湾に向かう。岬の入り口で強風と干潮のため波立ち岬を廻るのを断念。赤岩の野営予定地に戻り、そこから陸路で知床平へ上がり草原地帯を歩きアブラコ湾まで向かう。知床平からイソヤを望む。イソヤはアイヌの人たちが岬と考えた場所に立つ奇岩。松浦武四郎の知床日誌によるとウトロから帆船で岬に到達した一行は知床岬の高台に一夜を過ごし朝方海岸に降りてアイヌが取ってきたアワビ(と書いてある)、武四郎はアイヌ達を労い日本酒を振舞った場所と記されている。武四郎はここで木の柱を立てて「われは三重県一志郡出身の〜」と今でいう観光地に名を刻むような行動を思わずしてしまうほど感動したらしい。その木柱は発見できないが、なんとなくここに野営したのではという場所はあった。

2時間ほど探索し、熊の糞を何度か踏みそうになりながら、アメリカオニアザミに刺されながら、江戸時代まではアイヌの集落のあった知床平を後にする。昨年、阿寒湖畔でムックリを習った。ここでムックリを鳴らすために。願いは成就された。江戸以降ここで何度ムックリが演奏されたのだろうか。もしかすると初かも。口琴の音が風にのって知床平に拡散されていった。昔この知床平で平和裏に暮らしたアイヌの人々の暮らしに想いが馳せる。

赤岩の露営地にもどりカヤックを引き上げ、テントを張り、焚き火をおこし夜の準備を開始する。今夜はご飯とホッケのすり身汁らしい。出来上がるまで個人装備の冷えたビールやワイン、ウィスキー、焼酎が次々と出てきて意識が混沌とし始める。ホッケのすり身汁にはアイヌねぎが大量に投下されて良い匂いがしている。その匂いに誘われたのか、ひときは大きなメス熊が子熊を引き連れて移動をしている。こちらをしきりと気にしているが岬のほうへ消えていった。

私は前日2時間睡眠のため、宴の途中で意識を失う。丸太にもたれたまま焚き火にいぶされながら寝てしまった。目が覚める度に宴に集う隊員はテントに消えている。二度目に意識を失った後はさすがにテントにもぐりこんだ。10人用の本部用テントは大きなかまぼこ型。余裕かなと思ったら大人8人には狭い。最後飲んでいた佐々木隊長達以下数名は「せまい・せまい、もっと詰めてくれ」を連発するのを意識の彼方で聞きながら〜

夜中にトイレに目が覚めた。外に行くとなんと満天の星空、国後に三日月がかかる。眠さを忘れてしばし見とれる。人ごみに埋もれ、足元ばかり見ていると気付かない空間の広がり。過去・現在・未来のつながりの中に自分が生かされていることに気付きながらも眠い。今日の天気は持ちそうだなと思いつつテントに戻る。日の出前には再び起きてこよう。

みんな野生人なのか、半数が日の出前に起きはじめた。焚き火をおこすのがまずは第一に。そうこうするうちに国後から日が昇り始めた。こんなに近くとも国境。線引の理不尽さを感じる瞬間。昔は領国には樺太を日本・ロシア人の混合居住地域とした素敵な方法もあったじゃないかと考えてしまった。

朝食後出艇準備、午前6時半には相泊に向けて帰途についた。昨日と打って変わってうねりもなく風もなく、隊員から笑顔がこぼれる。皆の口からやたらと風が話題になる。私は吹いても凪いでも海上では風の話題をしないと信じている。風は生き物だから、風といった瞬間に吹き始める。あまり風、風って言わないほうがいいのにな〜と思いつつ進んでいく。干潮はいよいよピークで今までもみたことのない光景があった。カブト岩の沖の暗礁が島のように露出している。佐々木隊長がカブト島と命名した。以後はここはカブト島と呼ぶようにというきついお達しの後上陸すると、そこには銀杏草が一面に生えていた。

遊びながら進んでいくと、予想通り風が吹き始める。いつもの向かい風だ。だんだんと強く吹き止まない風の中進んでいく。風下のペギンの鼻で上陸し、断崖を登り鳥居まで海難事故にあわないように祈願にいくが、往復の転落事故のほうがはるかに怖い場所だ。神はいつも我らを試すんだな。鳥居付近では強烈な風が吹いている。やれやれ、海では風を話題にしちゃいけないのにするからだよ。

再び風の中を漕ぎ消耗しつつ、じりじりと相泊へ。強烈な風の一撃で声もでないという初体験隊員もげんなりと見える。向かい風は忍耐を要求するのだ、ひたすら忍耐、忍耐、漕ぎ続けなければ前に進まない。風はきっと凪ぐ。それまでは漕ぐ。

10時半だが昼食にすることになった。モエルスを過ぎて風の当たらない場所に上陸、インスタントラーメンを食べた。まるちゃん正麺の味噌味。正麺は袋ラーメンの最高峰。美味しくいただき12時まで休憩し、十分体力を養って、向かい風の中帰途につく。

風の中ひたすら漕いでいく。無心になる。風も波も風景も同化している。自分はその一部だ。鴎女の声に導かれながらカヤックと一体となって、ただただ前に進むだけ。

「風はやみそうか?」聞かれたが答えは何であっても漕ぐしかない。相泊の手前はいっそう強く吹き隊員の心を折ろうとする。もし崖の上でローレライが歌っているのなら折れてもいいが、早く着いてビールが飲みたい。後半はビールに誘導されて一行は午後2時半に相泊に到着し1泊2日の予定通りツーリングは終わった。

割と全般的にのんびりムードであったが帰途の逆風は初参加者には良い経験ではなかったか。知床は緊張の糸を必ず張っていなくてはダメな場所。本当に緩んでいいのは目的地に上陸し、後片付けも終わり安着祝いをするときだ。身体中に心地よい気だるさが残る。後片付けをして相泊川で用品の潮抜きを終えて解散。最後に相泊温泉で人間の潮抜きをして街へ戻る。一泊二日が一週間にも感じられる素敵なツーリングだった。(森川)




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