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オホ−ツクの海に出逢いの唄が聞こえ 戸川幸夫

句碑

九州佐賀県出身、山形高等科中退。 東京日々新聞記者、社会副部長を経て 昭和30年(1955)執筆活動に入る。 「高安犬物語」で直木賞受賞、動物文学 という新しい小説の分野を開拓、世界 各地を旅行する。昭和40年(1965)沖 縄・西表島の「イリオモテヤマネコ」を 発見。昭和55年(1980)紫綬褒章、昭 和61年(1986)勳三等瑞宝章を受章。
 
朔北に立つ
作家戸川幸夫は1959年から61年にかけて、 十数回に渡り、知床半島を訪れる。 59年9月には、漁船に同乗し、*ウトロから羅臼へ、 番屋を訪ね歩きながら、半島を一周した。 *知床半島ポロモイ鮭定置漁業柴田番屋。 *この時鮭番屋で「留守番さん」のことを取材し、 昆布番屋を訪れたおりそこに3人の息子の写真が 飾られてあった。訳を聞くと89人の人命を奪った 4・6突風の犠牲者であることを知る。 4・6突風 「赤岩に行くつもりだったが、行けずに、私の乗せてもらった種田番屋の 小船はニカリウシに入った。巨大な怒涛に翻弄されて、小船はいくど転覆 しそうになったかしれない。しかし、船頭の沈着と熟練がそれを救った。 沸き立つ波涛、暗礁を縫って、ニカリウシの種田番屋に近ずいたときは 正直言って、私は嬉しくて涙で目が曇った。 *いても立ってもいられない状態で船の柱に その身体をロ−プで縛りつけたそうです。 ・・・次の日もその次の日も海は荒れ続けた。 その間中私は種田番屋に釘ずけされていた。 種田さんは親切に番屋の事や、北の海のことをいろいろ 教えてくれた。私は種田さんの話を基にして 『オホ−ツク老人』という小説を書いた。
種田さんは、私が辞去して間もなく、この荒海で亡くなった 私の小説のように、暗礁にたたきけられた悲壮な死であった」 (「知床半島」戸川幸夫・新調社1961) 戸川幸夫のこうした体験から生まれた小説「オホ−ツク老人」が 発表されたのは59年10月。発表と同時に、反響を呼び、 当時人気の絶頂にあった映画俳優の目にとまった。 森繁久彌である。

「オホ−ツク老人」発表以来氏は羅臼に度々訪れ 詩や句を詠まれた。 知床は愉しからずや 酒に似て われ酔い痴れて 覚めることなし (1961) 鷲一羽虚空に舞えり 冬の日の この北洋の静けさに泣け (1961) 名を呼べば 大地吹雪を躍り出し (1978) 鷲影す 大氷原の閑けさよ (1980) この岬かなしからずや その余り 国後の近きが ゆえに (1980) 流氷のきしめきに聞く 嘆きかな (1986) 知床の賦 遠い はるかなる地の涯 日本に 最後まで残された古き世界 私は見た とぎすました氷の牙を 私は聞いた冷たい朔風の挽歌を 私は知った オホ−ツクの海の荘厳な美しさと悲しみを とりけものたちは 彼らの慣習にしたがって 生き そして死んでいく 人間も この半島に生きる限り 同じだ 彼らは 遠い祖先がしたように 魚群を追い 野獣を求め 秘かに人類の歴史の一頁をツズル 誰にも知られず 誰にも知らさず みんなが幸福にひっそりと生き そして逝く永遠の大地−知床半島 (氏がもっとも好きだといった詩です) エピソ−ド 昭和34年羅臼を訪れた時、ある飲み屋にメニュ−が 張り出されていたのに目をとめた。「コ−ヒ−あります」 「名曲あります」「ダンスあります」これを週刊誌に載せて 話題を呼んだ。−羅臼町100年誌より−   ホームへ