ヒグマと私
宮腰です。私はヒグマの研究者でもないし、名ハンタ−でもありません。
今日は「クマ」との漫談だと思っておつきあいいただきたい。
私のヒグマとの初めての出会いは、根室原野の風連湖のほとりである。
この地に親は戦後の開拓者として入植したのであるが。そこには全く斧を知らない
森があった。家を作るにしても木はたくさんあるが、材木にする技術がないから、と
りあえずそのへんの木を切り倒して堀建小屋を作る。小屋の屋根の上にはシマフクロウの
つがいがきて、「ボブ・ブ−」と言うように語り続ける。それを家の中で聞いていると
、老人のしわがれ声のように聞こえてくる。これがなかなうるさい。子供の頃であるか
らランプの石油が無くなる前に寝付かなければいけない、ようやく静かになって寝付く
と、今度は「ザッザッザッ」と聞こえてくる。これは屋根の中にはいったネズミを捕りに
来て足でかきとる音である。これがうるさくて大変だった。捕まえて「カレ−ライス
にして食ってしまうか」と話したものであった。
そのころ、回りにいたのはウサギ、リス、シマフクロウなどであった。子供の頃の
小遣い稼ぎといえばウサギを捕まえたり、シマリスを捕まえたりするすることであった。
シマリスは簡単に捕れた。当時テグスが無かったから、馬の尻尾の毛を1本抜いて輪を作り
締るようにする。それを長い竿の先につけ、その輪をリスの前にツツ−と垂らしてやると
、どいうわけかリスはフイッと輪をくぐるから、その瞬間につり上げる。
これが「リス」釣りである。しかし、はずす時に齧られるので大変だ。
今考えてみると、残酷なのだがショ−ルの毛皮として売れた。
「リス」の皮を屋根裏に干す。32枚ですね。4匹の8匹で高級なショ−ルができる。
一目ではシマリスはみな同じにみえるのだが、32枚の色合せにするためには、同じ
条件のところで捕ったリスでなければ色がなかなか揃わない。森林地帯にいるのは
ちょっと黒っぽいし、明るい所にいるのは白っぽい。色が合わないと買いたたかれる
小遣いは欲しいが、何百枚になるまでも持っておられないいうことで、何時も毛皮屋
さんに安く買いたたかれていた。また当時、小川には沢山のアメマスが生息していて
、シマフクロウさんがそれを食べ、食い散らかしたのをカラスが食べるいうことが
自然の中で延々と続いていた。そして、学齢に達し学校に通うようになった−
現在「シマフクロウ」を研究している山本純朗さんの住んでいるところ(根室市洛陽)−
その学校までの道路は両側に草がぼうぶうと伸びており、両側の木が上のほうで手を
つないでいるという状態だった。道路は、馬車通った轍の跡だけしか開いていない、
あとは草だらけである。朝一番に学校へ行くと、草に溜まっている朝露で体がどぶどぶ
になってしまう。だから、先にだれかがいったあとに行くといいのである。その日、
たまたま朝露が落ちていたので、誰かが先に行ったかなあと思いながら進んで行くと
、前方でクマがじろっと振り向いて見ていた。
これが私とヒグマとの初めての出会いであった。
その頃、開拓者には鋸や斧はあった。しかも開拓の為には馬一頭が絶対に必要で
あった。耕地を作るためには、まず木の根を抜かなければならない。木の根に、
ワイヤ−をかけて馬に引っ張ってもらう。少し根が起きたところを、
根切りマサカリでパツンと切る。そしてまた引っ張って根を切る。そうやって根を
抜く為に馬は絶対に必要だった。そのような時代に何件か先の開拓の家の馬がクマに
やられた。その馬は部分的にお腹のあたりが食われ、残りは穴を掘って埋めて在った。
このクマは雑な奴で、食べ残りを中途半端に埋めてあった。
たまたま、私のところに仕事の手伝いに来ていたランさんというアイヌのお爺さんが
いた。そんなに鉄砲を撃っていた人ではなかったと思うが、ランさんはハンタ−であった。
あとにも先にも私のことを「坊ちゃん」と呼んでくれた人は此の方だけだったので今でも
忘れられない。このお爺さんのところが私の遊び場であり、いつもランさんの所へいっていた。
ランさんは、ぼっちゃんのところの馬に手をかけたら大変なことになる、わたしが退治しますと
言って、埋められたあった馬の肉を干し肉にして、ただそれだけを背嚢に入れて旧式の村田銃を
持って出かけた。ちょうど一週間目に、「坊ちゃん、獲ったよ」と言って帰ってきた。
聞いてみると、
そのクマは行動半径は4キロくらいしか移動していないのである。
4キロメ−トルの範囲をぐるぐると歩き回っている。
「お爺さん、どうやって獲るの?」と聞くと、ただひたすらついて歩く、
3日目位になると、このクマが今なにを考えているかが分かるようになるという。
そしてだんだん距離を詰めていって、あいつももう寝るだろう、あいつは今何かを
食っている。そう思ってついていくと、想像どおり何処かで何かを掘って食っている。
人が付いて来ているのも当然知っている。何とか振り切ろうとするのだが、
食事もしなければいけない。同じところをグルグル逃げ回るのだけど、
ランさんもひつこく付いて歩く。
「奴はもう寝るなと思うと俺も寝るんだ。
奴がおきるなとおもうと、少し早く起きて距離をつめるんだ」
ランさんはそいうふうに徐々にクマを追いつめていきついに
学校の近くであったけれど、そこで獲ったのである。
大きなクマであった。
私が銃を持つようになってから、いずれクマを獲るようになったら、ランさんの
ようになれるに違いないと思っていた。しかしそれが違うことをこの頃になって
分かったのである。それはクマに対する思いだとか、森をどれほど知っているか
とかそいうことでなければ出来ない技だったのだということを、この頃になって
ようやく分かるようになった。
私が物心ついてからであるが、開拓に入ってそれまでに2町歩程の開墾が終わった
するとそこに、農地開発機械公団というのが国の施策でできて、木の根の大きなや
つは爆薬で吹飛ばし、粉々になったをブルトザ−でガ−ッと平らにする。8年、あ
るいは10年かかって2町歩拓いたのを2時間位で造ってしまう。屈強な父親だっ
たのだがこの時はじめて父親の涙を見た。「俺の今までの10年は何だったのか。
アホくさい・・・」。と言って泣いていたのを今でも思い出します。
そして地表を剥ぎ取るようにして、北海道の開発はバタバタと進んでいった。
その頃私たちと一緒に入植した人達は次々と離農していった。いわゆる夜逃げ
であった。全く生活が出来ず、借金もたまってしまって夜中に居なくなってしまう。
離農家の廃屋が点々とできた時に、新酪農村つくりというのが始まって、平らで機
械の入るところは全部表土を剥がして牧草地に変えていった。その結果、根室半島
と中標津町の武佐辺りの山、このあたりの山にはクマの冬眠の穴があったものと思
われるが、ずっと続いていた森がぶっりと途切れることになった。そして根室半島
には”くま”がいなくなった。その代わり今度は、広大な牧草地が出来たので、
”えぞしか”がわさわさと増えてきた。私は17歳までそこの土地にいたけれど、
一度もエゾシカを見たことがなかった、しかし”くま”は何頭も見ていた。
ところが今は、北海道中でもっとも過密なエゾシカのいる場所になっている。
その後私は根室を出て羅臼へ移り住むことになります。その頃には既にハンタ−
だった私はひたすらトド、とクマが撃ってみたいという思いに駆られれその条件
を満たした土地が羅臼だったのである。
私がこの人だと決めて通い詰めた人がいた。その親父さんが春の四月の中頃、
クマを捕りに行ったきり帰ってこないと、ばあちゃんから話があって捜索に行った
日が暮れていたが、道道から500メ−トル位入ったところの雪の上に血痕が見える。
しかし、本人もクマもいない。それで翌日も捜索が続いたのであるが、ハンタ−の
中にはいれてもらえなかった。足手まといなのである。一応捜索には加わっていた。
雪解けの川の滝の部分だけ露出して、流れが雪の下にもぐっているという状態の川
の中で、その人は銃を持ったまま息絶えていた。
解剖の結果では左手首がぐしゃぐしゃになっており、
左手を食われて振り回されたということが分かった。こめかみあたりに
には、5cmほどの深さで爪の入った跡があった。
当時内科の先生しかおらず意識的にその穴の中に逃げ込んで凍死したものなのか、
死因はなんだか分からないということでおわりになったが、
クマは生かしておけないということで私を除いたハンタ−達は
クマの足跡を追っていった。
数時間後皆は雨のため足跡を見ることが出来なくなったといって帰ってきた。
するとその中にいた犬が私の座っていたすぐ後ろの笹の中に
向って反応した。深傷を負ったそのクマが休んでいたのである。
犬にかかられ立ち上がったところをハンタ−に撃たれ絶命した。
100キロ位の雌クマであった。
亡くなった先輩のハンタ−はクマに致命傷を与えたものと思い、死が確実になるまで
、あるいは子クマも獲ってやろうと一服しているところを回りこんだクマに急襲され
たものと思われる。
尊敬する熟練のハンタ−の死は、クマは”下手撃をするな”という
教訓を私に残してくれた、衝撃的な出来事だった。
酒を呑んだクマ
山に実のない年があった。そこでクマがある民家に押し入った。民家の住人は
小さな子供を抱きかかえて二階に逃げあがった。目覚し時計を鳴らしたり、
いろんな物をぶつけたりするが、クマは階下で狼藉ほうだい一向に出て行かない
そのうち冷蔵庫を押し倒して中をあさる。缶ジュ−スや酒を呑んだりかなり
長時間そんなことやってから出ていった。
このことはすぐ”酒を呑んだクマ”として全国ニュ−スになり
報道関係の取材が押し寄せてきました。まあそれはそれとして
クマは同じことを繰り返す習性があり、またはいられたら大変
と捕獲することにしました。5基の檻をクマの出そうなところ
に点々と置いた。檻の設置を終えてさて帰ろうとした。
まだ明るいけれど一応檻を仕掛けてから一番端のやつは時間が経っているからと
いうことでで見に行くと家の近くの檻の蓋がストンと落ちている。
大きな鼠取りと同じ仕掛けなのである。
それでスワッというわけでみんなと出かけた。
行ってみると、黒猫が入って暴れていた。
民家のすぐ裏手だったものだから「猫を放すな」と言って、
その民家のお婆ちゃんの部屋を借りることにした。すぐ目の下に檻が見える。
そこに来たならばここから撃ってしまおうという手筈だった。ところが、
他の檻を見回りそこに戻って来たらまた蓋が下りている。
その時には日が暮れていた。また猫を放したなと言いながらハンタ−も
銃に弾も詰めないで、懐中電灯を持った人を先頭にして後からフラフラと付いて行ったわけです。
そしたら中に子グマが入っていて、母グマのほうが入り口の側でワッと立ち上がった。
懐中電灯を持った人が一番先に逃げてしまった。
後はおして知るべし夫々我勝ちに逃げた。
兎に角あの部屋だということで「わ−っ」と駆け上がったが、
今度は部屋の戸が開かない、「どうした!」というと、
婆さんがまだそんなことにはなるまいと風呂にはいって着替えているというのだ
クマはそこにいるのに行かれない、ようようにして婆さんの着替えがおわり、
現場に戻ったがみなパニックになっているから、
クマを撃ったあとで解体してみると背中からカモ撃ちの散弾が出てきた。
そのクマはかなりの深傷を負ってよろよろと私の表面に現れた。
嵐の夜だったから見ずらく正面にきたところ25メ−トルくらいのところで、
散弾銃(単弾)を一発撃った。全国放映のテレビカメラも回っている。絶対外されない。
ところが行ってみるとクマがいない。「宮腰!お前どこを撃ったのだ」と言うことになった。
次の朝一山越えたところで死んでいるクマを発見したのだけれど、
確実に死ぬべきところに弾が当っていた。
それが何故ひと山越えられたのだろう。
このクマにはもう一頭の子グマがいた。
母を呼ぶ子グマの声に引っ張られたんだということで納まった。
檻の中の子グマは登別のクマ牧場に貰われていき3代目のクマが
元気に生活しているそうです。母を呼んだ子グマは射殺されました。
クマの入った家は今も保存されています。現在
其のとなりにそこの主人が海鮮食堂”熊の入った家”をやっています。
熊の入った家/雑魚寝どころ
クマの習性
よく先輩のハンタ−に言われたのはクマを撃つ時は下から撃つな。
上からだ。上まで行くのが面倒なら真横まで行って行って撃てと。
なんとなく分かったような積もりでいた。クマのビデオを撮りに行った時
大きなクマが斜面にいた。私たちは、谷を挟んだところからビデオを撮っていた。
するとのんびりしていた巨体のクマが突如高鼻
(立ち上がって鼻を高々と上げて鼻を利かせ周りの気配を見ること。)
を使っていたかと思うと、ギュ−ンと谷底へ落ちるように消えていった。
そしてしばらくすると、この斜面の上の方から先ほどの半分くらいの
小さな個体が出てきて、大いばりにノッシノッシと現れ、しばらくここ
で遊んでいた。そのうち、小一時間も経ったろうか、この個体がまた
逃げていった。そうすると先ほどいた大きな奴が上を通って出てきた。
とにかく自分より上を取られたという時には、すごい緊張をするのである。
やばいというわけで、取りあえず逃げるのだが途中で「俺の方が王者のはずだ」
と引き返して来たのである。
同じように谷を挟んで向こう側にクマがいたのだが、動かないと面白い映像が
とれないということで、一人クマが好きなのがいて声をかけた。
「コラ−ッ、クマ、こっちへ来い」と叫ぶとまるで言葉が分かったように大きな
クマが我々を威嚇しながらどんどんと近寄ってくる。10mくらいになった。
ますますクマは威嚇してくる。その時私たちは鋸とマサカリだけの丸腰でビデオ
器材をかついで歩いていたのである。私たちは木を叩いたりしてワ−ワ−騒いだ。
するとクマはゆっくりと向きを変えて、ゆっくりゆっくり時間をかけて一つの
沢を越え向こうへ消えていった。
一番経験の深い先輩が「おい、宮腰、あいつ相当びびっていたぞ」という。
そんな事はあるまい。
振り向き振り向き「おまえたちなんか怖くない・・・」
とばかりゆっくりゆっくり行った奴がそんな事はあるまいと。
それでは行ってみるかということになり、クマの見えなくなったところまで行った。
する山の背をぽんぽんと飛ぶように逃げていく行くクマの姿が目に入った。
あの時の野生のクマの演技力には感心した。恭順の姿勢を示せば奴はぐんと
強気になったろうと思う。山でクマにあったら目をそらさず静かに後ずさりして
去るのがベストだとおもいます、
キャア−キャ−言うとむこうが急に強気になってしまいます。
番屋荒らしのクマ
一番苦労した例である。羅臼町と斜里町のウトロは、知床半島の稜線を挟んで
表裏の関係にありクマは両町を行ったり来たりする。ずっと、半島の先の方に
サケの定置番屋がある。クマがこの番屋を破って中に入り荒らしまくった。普
通は厨房に入って、厨房といってもご飯炊きのおばさんの暮らす場所、その辺
を荒らして帰っていくのが定番である。ところがそのクマは缶ジュ−スの甘み
を覚えてしまったらしい。全部の缶、プツンと穴が開いている。どの缶をとっ
てみても、四分六くらいのところに小指でついたくらいの穴が一個ある。報道
陣も「爪で上手に開けますね」って感心していた。きちんきちんと、几帳面に
四分六のところを測ったように開けているから不思議であった。
いろいろ想像めぐらし想い至ったことは頬の中にぽんといれてどっちかの犬歯
で穴を開けてそのままズ−ッとのんでしまう。空になるとぽんと投げて次ぎの
を飲むんだろうということだった。最近の番屋は若い人達のために個室になっ
ている。そこには私物もあるし、また秋にくるからとか来年また使うとかで、
いろいろと、ジュ−スや焼酎、ウイスキ−などが個室に置いて有る。今までは
厨房しかいじらかったクマが、個室のなかにも大好きなものがあることを知っ
てしまった。番屋を去る時は玄関を板張りにして止めて来るのだが、それを引
っぱがし、仕切りを破って各個室にまで入り込み、狼藉の限りを尽す。テレビ
はひっくり返り、冷蔵庫はとんでもないとこへ吹っ飛んでいる。
個室の壁をぱたぱたと抜いていき、一番奥風呂場のの脱衣所の大きな鏡に接し
鏡に写った己の姿に吃驚仰天、大きな手で鏡を一発殴っておいてその脇から飛
び出している。入ったところから出なかつたのはその番屋だけである。
クマは缶ビ−ルより日本酒が好きなようで、
ビ−ルは残してあったコ−ヒも大好きなようだ。
さて駆除体制に入ったのであるが、私は整骨院をしており、夕方5時まで開業
時間がくるとサット閉め、仲間の待つ相泊の港まで約20キロを車で走る。
そこから小さな船に乗り合せ半島の先まで渡る。そこで一晩クマの出てくるの
を待ち、朝4時頃起きてその辺りを見回って8時までに仕事場戻り仕事をする。
そのようなことを繰返し2ヶ月たった。しかし番屋荒らしのクマはなかなか姿
を見せてくれない。クマは見慣れない船が来た時は決して動かない。私たちの
動きは完全にクマに見張られているのである。朝になり私たちの船が帰ると狼
藉を働くのである。キツネの足音にも神経を尖らす夜の見張りに私たちの体力
も限界にちかずいた。もう檻をかけなければ駄目だということになった。問題
があった。国立公園内のため許可がでるにはそのクマが確実に”缶ジュ−スの
好きな番屋荒らしのクマ”と特定出来なければならないのである。兇状持ち以
外のクマがやられては困るというのである。一方次々と荒らされる番屋の持ち
主にすればすぐにでも駆除してもらいたい。監視のため、こっちに張り付くと
そっちをやられ、そっちに張り付くとこっちをやられる。そんなことを繰り返
しているうちにやっと道の許可がおりた。
早速私たちは檻をしかけたのであった。その晩のうちにクマは来た。足跡は檻
のなかまでをすっかり調べていっている。囮の餌は檻のまえに一個、入り口に
一個、、一番奥に一個置いて有る。一番奥のにありついたところで、踏み板を踏
み、ガシャンと戸が落ちる仕組みになっているのだが、利巧なクマだった。そ
れを食べてくれないのである。これには参った。そのころ私たちは疲労の限界
に来ていた。何とかしなければならない。みんなで知恵をしぼった。餌を全部
檻の中に入れ檻の入り口をコンクリ−トパネルでしっかりと蓋をした。クマの
壁を破るという習性に賭けたのである。その日はたまたま根室支庁長が視察に
来るという日だった。8月の午前6時というのは白昼の明るさである。その6
時から8時までの間にコンクリ−トパネルを破り囚われた感覚もなしに洗面器
状の入れ物5個の餌をきれいに食べていた。まるでどうだといわんばかりだっ
た。270kgの雄クマだった。年齢ははっきりしない。お役所から個体の特
定をしてくれと言ってきた。缶ジュ−スの好きな番屋荒らしのクマだという証
明が欲しいと言ってきた。”こいつだ”ということがどうして分かるのかと
言うのである。実はこのクマは、ウトロ時代にガラスを破って大怪我を
しているのが分かっていた。大出血が確認されていたのである。
そこで足の裏をひっくり返してみると、ざっくりと切れていた。
一件落着である。
通常クマが体脂肪をつけるのは、旧盆をすぎたあたりから急激につける。
それまでは遊び食い的に食っている。
ところがこのクマは米を食い、味噌をなめ、油をなめ、しかも甘いも
のを沢山飲んでいるからごろんごろんに太りもう少し放っておけば
糖尿病で自然死したのではないかというほど脂肪がついていた。
今度は相泊の先の昆布番屋で”犬が食われた”とのことです。それは一大事と
ばかり行ってみると、犬の吻と後ろ足の爪先部分を残しあとは皮ごとすっかり
食べられていた。犬小屋に鎖で繋がれていた犬が鎖ごと持っていかれ番屋から
3mくらい離れた裏である。これは非常に危険であるので檻掛けの願いをだした。
お役所はしぶしぶ許可を出した。実は半島のときの許可条件に個体識別する為に
ジュ−スで捕獲して欲しいと言われた。「そんな馬鹿な・・・」と思ったが許可さえ
出ればこっちのものだ。クマはジュ−スも好きだが蜂蜜も大好きだ。
なんでも食うのであるが、キツネも食う魚などが入っていると檻の役をなさない。
そこでクマが好きだがキツネが食わないというフル−ツを使う。
フル−ツを潰し1斗缶分の蜂蜜でまぜて誘導餌とした。
今回の犬食いクマにもそうした。そこへお役所から電話がきて
「宮腰さん、むこうはジュ−スでしたよね。で、此方の方は・・・?」
これには私もムッときて「当然、檻の餌は犬だろう・・・」お役人は黙っていた。
この”犬食いのクマ”はまだ捕まえられていません。
数年前までは殆ど報告されなかったことなんですが、近年あそこでクマが鹿を
追いかけていたとか、お尻の肉をだらりと垂らしたいた鹿がいたとかいう話が
増えてきています。これは最近エゾシカが異常に増えたことに起因します。
スピ−ドでの違いでエゾシカを獲ることは出来ないが、
数千のエゾシカのなかには毎年衰弱体も出れば死体も出ます。
クマは死体を食べ、衰弱体を追ううちに食肉に目覚めてきたのです。
もし何か伝染病とか、大雪とかの影響で鹿がどんどん減った時に
食肉を学習したこれらのクマが家畜に手を出すのでないかという心配があります。
狭い知床半島に何百のクマがいるか分かりませんが、よくぞ生き残っていたものだと
感激してます。あの巨大な個体が、よくぞ開発に耐えて生き残っていたと思う。
だから、なんと彼等と共生していく道を探さなければいけないと思うが,アラスカ、
アメリカ、カナダでやっている方法が、知床半島に当てはまるかというとそれは疑問だ。
一方、ハンタ−がどんどん老齢化している。私も真っ白な頭をしているが、
これで若手です。羅臼に来た時、50人いたハンタ−が現在16人です。
ですから、もう少し経つとクマは自動的に保護されるようになっていくと思います。
ここで宮腰さんの話をちょっと置いといて、
今日(99.12.24)の北海道新聞に載った記事を
道新編集局の許可をえて抜粋し、ご紹介します。
手負いグマと死闘
これは《手負いグマと死闘》というタイトルで、
釧路の白糠町に隣接した音別町の山中で10月31日にヒグマを狩猟中、
ライフル弾を浴びせた三歳の雄グマに逆襲され格闘すること20分、
重傷を負いながら生還したハンタ−の生々し体験談です。
上記の宮腰さんの話しを頭に残しながら重ねあわせて読んでみてださい。
続き
いつもニュ−スになってしまうと、必ずと言っていいほど電話がくる。
たいていの場合は匿名である。「ハンタ−などの存在は認めません」という。
「お名前をお聞かせ下さい」というと、「名前なんかいいから」と言って好きな
ことを責め立てるのである。私も仕事中であるから、「名乗られないかたと
お話するつもりはございません」と言ってお断りしているが、道内であれば
札幌、旭川あたりのかたが多い。「知床は野生の大切な宝庫なのだ」と、「お
まえたちの生活道路を造ってはいけない」と。「クマを撃つなんてもっての外だ
野生に返してあげなさい。もしそこで暮らせないのであれば、あなたたちが、
そこから引き上げていけばいいのだ。コンブ採りもやめて、サケの定置網も
やめればいいんだ」とも言う。確かにその通りである。しかし「あなたのお住
まいになっている旭川は、60年ほど前はクマがたくさんいたのだ・・・」と、
そこまで言うと電話が切られてしまう。みなさんはそうおっしゃるのだが、
私はとびっきりの自然保護派ではない。でも野遊びが好きであるから、勿論
クマがいなくなるのを恐れている一人である。風格のあるクマと銃をもって
対峙したとき、その時の緊張感とか興奮というものは捨て難いものがある。
正直言って好きである。私どもに駆除依頼のある季節、6月とか7月、8月
というのは、森の王者の品格にもっとも欠ける時である。痩せこけていて肉
はなく、夏毛であるから毛もない。クマの胆も野山の野菜を食べているから
、どんどん消化液として使われてしまって、ただのぼろになっている。
ハンタ−として、不本意でこんな悲しいことはない。ですからハンタ−に
とってはもっとも空しく悲しい作業だということをわかっていただきたい。
何か、うまく共生出来る手だてがないかと模索している。そのことについて
は、皆様からの知恵を貸していただければと思っている。
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